グレアム・ファーメロ著吉田三知世訳「量子の海、ディラックの深淵」

 The strange man The hidden life of Paul Dirac, Quantum genius

原題の方が簡潔にして要を得ている。天才にして寡黙な変人ディラックの逸話は広く人口に膾炙しているが、その実像に踏み込んだ本は寡聞にして知らなかった。本書はディラックの生い立ち、家族、特に父親との葛藤、逸話の真偽、交友や結婚生活、何故工学部に進んだのか、創造的な8年間とその後の物理界での活躍、晩年のフロリダへの移住等、今まで疑問に思っていたことを余すことなく描く。特にカピッツア、シュレディンガー等の少数の友人に対しては尋常ならざる義理堅さと献身を示していたことは印象的。また良く知られた寡黙さばかりでなくノーベル賞記念晩餐会で唐突に見せた過度な饒舌や結婚してから妻に恋に陥ったように一筋縄では捉えられないディラックの実像が浮かび上がる。訳文は簡潔にして正確で極めて読み易い。惜しむらくはディラックの物理的業績の説明が不足しており、本を読むだけではどの論文に対応する業績を説明しているのかが容易に分からない点である。ある程度式を使って簡潔に物理を説明した方が読者にとって助かる。その点でパイスがアインシュタインの評伝で成功した手法を踏襲して欲しかった。